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第3章 田島弥平旧宅と高山社跡――養蚕技術改善と生産性向上への試み
高山社跡――アジアワイドで貢献した養蚕技術の普及教室

田島弥平の清涼育を学んだ後、長年の養蚕研究と飼育記録を基に、高山長五郎が開発したのが「清温育」である。換気を重視しながらも、蚕の成長に合わせた湿度・温度の調整とその飼育管理を行うことが、良質な繭を作ることにつながるという考え方である。

高山長五郎は、1830(天保1)年、高山社の土地で生まれた。祖母が営む養蚕で一家を支えていたが、当時の養蚕は、コシャリという白カビが蚕に付着する被害が大きく、養蚕は天候に左右され、農家の収入は非常に不安定だった。

そこで、高山は祖母の養蚕を助けようと養蚕に挑戦したがうまくいかず、失敗を重ねた結果、良質の繭を安定的に生産するためには気温だけでなく湿度の管理も重要であることを発見し、「清温育」を確立した。

こうした温度と湿度の管理を緻密に行うため、蚕室はいずれも小さく、大部屋にはしていない。天井から抜ける屋根には3つの越屋根が付けられており、この窓を開閉することで、蚕の状態に合わせて温湿度のコントロールを行うようになっている。

この方法は、画期的な近代養蚕法として近郷の農家から教えを乞いに来る人も多く出てくるようになった。そこで、1870(明治3)年、自宅に養蚕指導所「高山組」を設立し、その後、事業を拡大して1884(明治17)年「養蚕改良高山社」と改名した。

この新しい「清温育」の考え方は瞬く間に全国に広まり、翌年には、伝習所を藤岡に建設し、長五郎の死後(明治19年)に移転。その後、二代目社長だった町田菊次郎が受け継いで高山社の活動を展開した。巡回指導者による実践的な指導の導入で、ピーク時の明治40年代には、高山社は国内のみならず、台湾などを含めて40,000人の社員を数えるほどの規模になったという。

高山社がこれほど普及したのは、「清温育」の適切さとともに、蚕室の温湿度は、「秋から春先にかけて着る裏地付の袷(あわせ)一枚くらいでちょうどよいくらい」といった分かりやすい具体的な例をつかって指導したことなどが言われている。

ここでは、近代的なものづくりの管理に通じる、緻密に作られた蚕室を見てみよう。

高山長五郎 1830(天保1)年生まれで1873(明治6)年「養蚕改良高山社」を組織する。養蚕法「清温育」の開発・普及活動で国の賞勲局から発明賞を受賞している(国立公文書館)。
高山社跡。屋根には3つの櫓が組まれ、天窓が付けられている。換気をうまく行うことで、温度と湿度を適正に保つ工夫がなされている。
高山社跡長屋門。江戸時代後期の建築で、もともと屋根は板葺。
1階天井。2階の火鉢の底裏が1階の天井に出ている。温度管理を緻密に行うため、1階だけでなく2階にも火鉢が設置されている。
2階養蚕室。蚕を置く棚の部分は1階からの開口部になっていて、開閉できるようになっている。1階で暖められた空気が2階に上がってくるように設計されているのである。
2階の床。2階にも堀炬燵のように火鉢を置くスペースが作られており、火鉢の床が1階天井から見える。
明治19年に高山長五郎が死んだ後、静温育の発明で、明治25年に功績を追賞して賞勲局から金5円が下賜された。その際の文書。
町田菊次郎 町田菊次郎。高山長五郎の後を受けて2代目社長として、高山社の事業を受け継ぎ、全国で指導を展開し発展させた。
町田菊次郎旧宅。高山社跡から車で15分ほど。2階に蚕室があり、屋根には3つの越屋根がある。「清温育」がそのまま行われていた。
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