ドイツでIoTと機械製造業の生産性をめぐる議論|
インダストリー4.0 最前線ドイツからの報告⑨
第9回 ドイツでIoTと機械製造業の生産性をめぐる議論
在独ジャーナリスト 熊谷 徹
今年10月に公表された研究報告書が、ドイツの製造業界で大きな議論を巻き起こしている。それはドイツ機械工業連盟(VDMA)の研究機関であるIMPULS財団が10月14日に発表した「機械製造業界の生産性のパラドックス(Produktivitätsparadoxon im Maschinenbau)」という96頁の報告書だ。
好況にもかかわらず生産性が伸びない
これはVDMAがマンハイムの欧州経済研究センター(ZEW)とカールスルーエのフラウンホーファー・システム技術革新研究所(ISI)に委託して作成したもの。
報告書のテーマは「インダストリー4.0などIoT技術導入の努力にもかかわらず、なぜドイツの機械製造業の労働生産性は伸びていないのか」というものだ。
確かに2009年のリーマンショック以降、ドイツの機械製造業界では矛盾した現象が起きている。
現在ドイツの製造業界は、絶好調と呼ぶべき状況にある。中小企業も含めてドイツの製品に対する需要が多く生産が間に合わないほどだ。製造業界は恒常的な人材不足に苦しんでいる。機械製造業の好調ぶりを反映して年々ドイツ経済の輸出額は増えており、2016年以降この国の経常黒字は中国を抜いて世界最大の規模となっている。つまりドイツの機械製造業界は、売上高、輸出額、賃金水準、雇用水準などについてリーマンショック以前の状態を回復することに成功したのだ。
一方、労働生産性はいまだにリーマンショック以前の水準を回復していない。機械製造業界のの活況と矛盾するかのように、その労働生産性は近年伸びていない。他の先進国同様に、21世紀に入ってから労働生産性の低下傾向が目立つ。
インダストリー4.0が生産性向上に貢献せず?
ドイツが製造業界のデジタル化計画インダストリー4.0の先駆国であることを考えると、生産性の停滞は特に奇妙な現象に思える。ドイツ工学アカデミーや連邦研究教育省は、2011年にインダストリー4.0を全世界へ向けて公表した時、「ドイツの製造業界の労働生産性を30%引き上げる」と豪語していた。
ZEWとISIによると、ドイツの機械製造業界の1時間あたりの労働生産性は、2007年に約61ユーロと頂点に達したが、リーマンショックによる不況が終わった以降も2007年の水準を回復せず、2011年以降は毎年減る傾向にある。
さらに2015年の機械製造業界の生産性は、全産業の平均よりも10%低い。機械製造業界の生産性は、2008年までは他の業種の生産性を上回っていた。これは、2000年に機械製造業界の生産性が他の業種を23%上回っていたことを考えると、意外である。またこの報告書によると、2014年の日本、米国、韓国の機械製造業界の労働生産性は、いずれもドイツを上回っていた。
ドイツ経済を支える屋台骨である機械製造業界の生産性が他国だけではなく、ドイツの他の業種に比べても低いというのは、意外な情報である。
メーカーはデジタル投資の初期段階
報告書は「機械メーカーが実行しつつある生産工程のデジタル化は、生産性向上に寄与していない。スマート工場に関する最新のテクノロジーは、他の業種に比べても効率性を引き上げる効果を示していない」と指摘する。
そしてZEWとISIは、「ドイツの製造業界の生産性がインダストリー4.0によって増えていない理由は、多くの企業がまだデジタル化のための投資を行っている最中だからであり、生産性拡大の効果が表れていないからだ。多くのメーカーはまだIT部の構築やデータ分析のリソース拡大を行ったり、技術革新につながるビジネスモデルを立案したりしているところだ」と分析する。つまり多額の投資の割には、まだ高い生産性という形の果実を収穫する段階には至っていないというのだ。
さらにメーカーの国外生産比率の増加も、原因の1つだ。ドイツの経済統計は国内の労働生産性だけを記録しているため、メーカーの国外の製造拠点での生産性向上が含まれていない。
サービス業の要素の増加も一因か
もう一つの理由は、製造業の中でサービス業の要素が増えていることだ。ZEWとISIは「インダストリー4.0は、製造業の中にサービス業の要素を持ち込む。製造業とサービス業の融合は、製品の品質を高め顧客との関係を深めるという利点がある。だが一方でサービス業は製造業よりも労働集約型なので、、サービス業の労働生産性は製造業よりも低い。このため、インダストリー4.0の主眼の1つであるサービス業の要素が高まることによって、製造業全体の労働生産性が低くなっている。多くの機械メーカーは、サービス業の要素の増加による労働生産性の増加への対応をまだ始めていない」と指摘する。
「産業界への警鐘」
この調査結果については、ドイツの産業界から厳しい意見が出ている。VDMAのトーマス・リントナー前会長は「ドイツの製造業界の生産性が外国に比べて低いことは、我が国の物づくり業界への警鐘だ」と指摘。
またドイツの保守系日刊紙フランクフルター・アルゲマイネ(FAZ)紙も「好景気のために受注高が増加し、収益性も高いドイツの機械製造業界の労働生産性が他国に比べて低いのは、いささか驚きだ。ドイツの企業はロボット、IoTのソフトウエア、スマート工場などを次々と導入しているが、少なくとも現状を見る限り、生産性に関しては、これらの技術革新は優位性につながっていない」とコメントしている。
この報告書がきっかけとなって、今後ドイツの機械製造業界では「いかにしてインダストリー4.0の導入を労働生産性の向上に結び付けるか」という議論が繰り広げられるだろう。筆者の私見では、ドイツ科学アカデミーが言うようにドイツの製造業界の労働生産性が30%増加するまでには、まだかなりの歳月がかかると思われる。
(続く)
【タイムフリー・オンライン配信】
「【現地報告】コロナ・パンデミックと戦う欧州諸国 ~アフターコロナを探る~」
配信期間:2020年7月31日(金)17:00まで
著者略歴
熊谷 徹(くまがい・とおる)
1959年東京生まれ。早稲田大学政経学部卒業後、NHKに入局。ワシントン支局勤務中に、ベルリンの壁崩壊、米ソ首脳会談などを取材。90年からはフリージャーナリストとしてドイツ・ミュンヘン市に在住。過去との対決、統一後のドイツの変化、欧州の政治・経済統合、安全保障問題、エネルギー・環境問題を中心に取材、執筆を続けている。
著書に「ドイツの憂鬱」、「新生ドイツの挑戦」(丸善ライブラリー)、「あっぱれ技術大国ドイツ」、「ドイツ病に学べ」、「住まなきゃわからないドイツ」、「顔のない男・東ドイツ最強スパイの栄光と挫折」(新潮社)、「なぜメルケルは『転向』したのか・ドイツ原子力40年戦争の真実」、「ドイツ中興の祖・ゲアハルト・シュレーダー」(日経BP)、「偽りの帝国・VW排ガス不正事件の闇」(文藝春秋)、「日本の製造業はIoT先進国ドイツに学べ」(洋泉社)「5時に帰るドイツ人、5時から頑張る日本人」(SB新書)など多数。「ドイツは過去とどう向き合ってきたか」(高文研)で2007年度平和・協同ジャーナリズム奨励賞受賞。
ホームページ :www.tkumagai.de
メールアドレス:Box _ 2@tkumagai.de
フェースブック、ツイッター、ミクシーでも実名で記事を公開中。
Toru Kumagai
【タイムフリー・オンライン配信】 「【現地報告】コロナ・パンデミックと戦う欧州諸国 ~アフターコロナを探る~」 配信期間:2020年7月31日(金)17:00まで