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第1章:富岡製糸場――近代化を急いだ日本ものづくりの模範工場
(3)横浜の開港で生糸ブームが沸騰

眠りから目を覚ます――和親条約から通商条約へ

時代の背景を簡単におさらいしてみよう。
江戸時代、世界史の舞台からひっそりと隠れていた日本は、1854年のペリーの来航をきっかけに1859年(安政6年)、横浜・長崎・函館を開港して外国貿易を開始する。当時、幕府にとって最重要課題は、欧米諸国の侵略を防ぐために産業を興し、軍備を増強することにあった。そのための資金源である外貨を獲得する目玉として考えられたのが生糸である。
江戸幕府は、1854年、アメリカと和親条約を締結し、続いてフランス・イギリス・ロシア・オランダ・スペイン各国と和親条約を締結。この段階では各国領事が来日するレベルだったが日本との交易を望む各国の商人たちの強い要望に押されて幕府は1858年、アメリカと通商条約を締結し、1859年に神奈川の港を開港し通商を行うことを約束する。
続いて5か国とも通商条約を結び、1859年に幕府は神奈川と称して小さな漁村だった横浜に港を設け、開港する。こうして、各国商人たちが横浜の港にやってくることになったが、一攫千金を求めて押し寄せてきた外国人商人たちが見つけたのが生糸と蚕種、そしてお茶だった。

目指すは富国強兵・殖産興業

アメリカに迫られて開国した幕府の心配は、圧倒的な技術力、武力を持った列強各国から侵略を受けるのではないかとの危惧だった。それに対抗するためには、富国強兵を進めることが不可欠だが、そのための手段は、殖産興業、つまり技術を学んで産業を興し、列強に対抗できるだけの武力を持つことにあった。
それまで長い間外国と交易のなかった日本にとって、技術を取り入れ、武器を購入するための資金をどう獲得するかが大きな課題だった。そんな時に、生糸・お茶が売れることに気づき、政府の政策は生糸貿易振興へと傾いていくことになる。開港したら生糸が売れた。結果論だったが、維新を成し遂げて国の発展をめざした維新新政府にとっては渡りに船であった。
江戸末期の日本は、養蚕も盛んで生糸が多く作られていた。そのころ(1800年代の中頃)、フランス・イタリアで蚕の微粒子病が蔓延し、和親条約が結ばれて貿易が行われるようになると、多くの商人が生糸とともに蚕種の買い付けに日本にやってきた。こうして養蚕が盛んだった上州を中心に、多くの商人が横浜に集まり、生糸の取引が沸騰し、一大ブームになっていき、横浜の開港場には生糸とお茶を扱う多くの商店が全国から集まることになった。
しかし、好況は長く続かない。ブームにあぐらをかいた粗悪品も市場に流れるようになり、生糸の品質検査ノウハウを持たない日本商人たちは老獪な外国商人たちに買いたたかれて生糸の値が崩れていく。これでは外貨の獲得もままならない。政府にとって高品質の生糸生産は焦眉の急となっていた。

生糸高品質化への道

そんなとき、外国商人から日本で器械式の製糸工場を造らせてほしいとの要請が出される。これを許可すれば、やがて国内の製糸業は外国資本に駆逐される。そんな危機感のなかで、幕府は、1870年(明治3年)自前で器械式の製糸工場の設立を決める。従来のような手作業での製糸では旺盛な外国商人の需要には応えられない、平たく言えば、軍備を進める資金を獲得できないという判断である。
酒・味噌・醤油以外はほぼ家内生産のような工場しかなかった時代に、思い切った意思決定である。当時大蔵省の役人だった深谷出身の渋沢栄一らは、指導者としてフランス人のポール・ブリューナを製糸場建設・運営の責任者として契約する。
ブリューナは、横須賀造船所を設計したバスチャンに工場の設計を依頼し、フランスに製糸器械を発注、突貫工事で建設を行って、明治5年10月に創業をはじめた。
この時に造られた製糸機械は蒸気機関を利用したもので、機械を利用した機構は繰糸を巻き取る作業だけで、現代の自動機と区別するために「器械製糸」と呼ばれる。

繰糸工場入口。
東西繭倉庫と隣接してコの字のタテの部分にある。現在は外されているが、創業当時は、右の東繭倉庫から貯蔵してある繭を搬入できるように2階でつながっていた。
内部はトラス構造という屋根を支える木組法を用いて、幅12.3メートルの間には柱がない。広い空間が保たれているために、本格的な自動機の時代になっても十分に工場として使うことができた。当時は、照明がないので、窓を大きくとり、外光を取り入れて、その明るさで操業していた。
 当時の繰糸機。
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