第1章:富岡製糸場――近代化を急いだ日本ものづくりの模範工場
(5)富岡が初の官営製糸場の地に選らばれたわけ
そんな江戸から離れた富岡になぜこんな大きな工場を建てたのか、疑問をお持ちの方もいらっしゃるかもしれない。
富岡が官営製糸場の建設地に選ばれたのにはいくつかの理由がある。
- 上州・信越地方には養蚕農家が多くあり良質の繭が集めやすい
- 蒸気機関を使うために燃料が必要だが、近くの高崎で亜炭が産出されていた
- 前を流れる鏑川から良質の水が得られたなどに加えてもう一つ、
- 製糸場を建設するための広大な用地が用意されていたことも大きな要因になっている。つまり、整地の必要がなかったのだ。
南牧-砥石の名産地
製糸場の立地を巡って、ポール・ブリューナら関係者が信州、上州などを視察して回っている。その際に、この地にスペースがあることがわかり、ここが建設地として選ばれた。工場を早く作りたい国としても、これから新田開発(整地)をしていたのでは間に合わないという事情もあったと想像される。
もともとこの土地、江戸初期に代官だった中野七蔵が、南牧・砥沢で採掘されていた上野砥石の輸送のための中継地・在庫調整地、代官陣屋として新田開発(整地)をした。しかし、人事異動により中野代官が他へ転出してしまったために、建屋は着工されることなく、予定地のみが周辺住民の入会地として残されていたのである。
江戸時代を通じて、刀剣を加工するために砥石は欠かせない。南牧で採掘された砥石は、倉賀野まで荷駄で運ばれ、そこから水運で江戸に運ばれた。南牧・砥沢と倉賀野までの輸送の中継デポとして富岡の地が選ばれていたところに、明治3年、官営の富岡製糸場が建設されることになったのである。
日本人での運営--官営から民営へ
こうして作られた富岡製糸場が、当時どのくらいの生糸を生産したのか、明確な資料はない。しかし以後、日本各地に器械製糸場が建設され、日本の生糸は世界に輸出されていく。官営富岡製糸場は、国内での製糸業を広めるための模範工場として大きな役割を果たしたが、製糸工場としての経営には苦しみ続けた。高コストのひとつであった、フランス人工女たちを1年で帰し、ブリューナも4年目の明治9年には帰し、創業4年目にして日本人だけの操業が行われるようになった。
日本人による事業化は一つの目標ではあったが、繭の買い取り、生糸の販売、どちらも投機的な要素を多分に持った取引であり、官営であるがための高コスト体質を脱することができなかったようだ。
この結果、明治26(1893)年には三井家に払い下げられ、その後、原合資会社をへて、昭和14(1939)年片倉工業の所有に。同社は、設備・技術を更新しながら操業を続けたが、昭和62(1987)年に製糸工場として115年の歴史を閉じた。
日本の生糸の輸出は昭和5年をピークに減少するが、代わって増えてくるのが繊維製品である。桐生・足利の繊維産業が勢いを増し、一大集積地へと成長していく。素材の輸出から加工された製品の輸出へ、その流れは開発途上国の自立への道でもあった。
ブリューナ館


