第1章:富岡製糸場――近代化を急いだ日本ものづくりの模範工場
(7)富岡の隠れた主役:伝習工女
新しい時代を切り開いた武士の娘
富岡製糸場の設立のねらいは高品質で安定した生糸を生産し、外貨を獲得することにあったのだが、それを官営で始めたのは、版籍奉還・廃藩置県で主家と家禄を失った士族、つまり武士たちの新しい事業として、全国に器械製糸事業を展開する、その模範にしようという意図があった。
そのため、工女として全国から集められたのは士族の娘たちで、富岡製糸場で器械に繰糸法を学んだあとは、各藩に帰ってノウハウを伝授する研修生という意味で伝習工女と呼ばれた。
創業にあたって、全国の藩に13歳~25歳の工女募集の告知を送ったが、なかなか集まらなかった。赤ワインを飲むフランス人の姿から、「富岡の工女になると血を飲まれ、油を搾られる」などのうわさが広まり、しり込みされてしまったのだ。
そのため、製糸場の初代工場長尾高惇忠は自分の娘・尾高勇(ゆう)を工女として送り込むことで無害をアピールした。苦肉の策である。
旧松代藩から応募した横田英も、松代で募集にあたった父親・横田数馬(元松代藩家老)が、自らの17歳になった娘を派遣することで、工女の応募を促した苦肉の策でもあった。横田数馬自身も機械工として参加し、のちにその時の経験を生かして松代に製紙工場を建設することになる。
維新政府としては、長州からも工女を積極的に送り込み、維新の元勲といわれた井上馨のメイ鶴子・仲子なども参加させている。
集められた子女は、生まれ・育ちから見れば、いずれもなに不自由のない暮らしをしていたお姫様たちだった。親元を離れて工女として働く、時代の大きな変化を、身を持った体験した存在でもあった。
女工としての自負と誇り--週休制、定時労働、医務室完備
製糸場の女工というと、女工哀史を思い浮かべて、富岡製糸場をマイナスのイメージで理解している人もいるようだが、それはまったく違う。
伝習工女たちの処遇は、日曜定休、定時労働、病院(診療所)にはフランス人医師がいて入院施設もあり、花見や盆踊りなども行われ、極めて近代的。これは、首長のブリューナが、先行するヴェルニーの横須賀製鉄所にならって、フランス式の管理法を導入した結果であった。
給料も、技術の等級に従って決められ、明治6年には1等工女1円75銭、2等工女1円50銭、3等工女1円、中回り(班長)2円だった。工女たちは、金額はともかく、故郷の期待を背に受けて、最先端の官営の工場で学ぶ選ばれた存在として自負と誇りを持っていた。なによりも、国を外国の侵略から守るために、生糸を販売して外貨を獲得すると教えられており、製糸場で働くということ自体が誇りでもあった。


伝習工女の墓
とはいえ、工女の年齢は13歳~25歳、平均で16,7歳と若い。家を離れて初めての寄宿舎での集団生活、しかも慣れぬ製糸作業ということもあり、病に倒れる工女もいた。死亡の原因で大きいのはチフスの流行で、1880年(同13年)には、病院での治療のかいもなく15人が亡くなっている。
製糸場の正門を出て北に行き、国道254号を西に曲がって数十メートル、右手に浄土宗の龍光寺がある。山門を入ると、本堂の左手に、明治7年~33年に製糸場で亡くなった工女たちの墓がある。
墓は何か所かに分散されており、名前も明記されている。なかには工女たちがお金を出し合って埋葬したという例もあるようだ。
墓参りをした後は、表に戻って、山門もゆっくり拝見してみよう。戦後になって再建されたものだが、彫刻や造りに手が込んでいて、一見の価値がある。


工女の墓は、しっかり管理されている。

